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「学び」へのステップ 大学から始める『言葉の力』育成プログラム
【2】発展編③(7月5日)を実施いたしました。

2014.08.28

「【1】発展編③(7月5日)を実施いたしました。」 の続きです。

【グループ5】

 このグループがつけてくれたテーマは「大学をサボってしまう人たちへ」。これは人目を惹きますね。いやあ、もう、大学をサボってしまう人たち(より具体的にいうと私の授業をサボってしまう人たち)にこのグループのファシグラを見せてあげたいくらいです。そして、こんこんとさとしてあげたいですよ。ええ、はい、本当に(笑)。
 さて、このグループが扱ってくれたのは石渡嶺司『就活のコノヤロー』。大沢仁との共著『就活のバカヤロー』の続編にあたります。前作は企業と学生が「就活ビジネス」に翻弄される様とそうした実業の奥にある背景を描いており、すでに実施した以前のコトチカ発展編のテキストでも取り上げたことがあります。その続編である今作は、特に大学の意義について述べられた箇所をテキストとして抜粋しました。
 筆者の主張はファシグラの中央に「大学の勉強はムダではない」としてまとめられています。もちろん、そういう主張をするからには、「大学の勉強はムダなのではないか?」という潜在的な疑問があるからで、その疑問をファシグラの下部に括っています。大学の勉強はムダだ、という意見はやはり社会には根強くあるんだと思いますが、その理由は大学生たちがあまり勉強しているように見えないからでしょう(実際、日本の大学生の学習時間はアメリカなどに比べるとかなり少ないのは事実ですから)。
 しかし、ただ黙って授業を受けたり、与えられた問題集をこなしたりしているだけで「勉強している」と見られるような高校までと違い、自ら問いを立て、考える学習を必要とする大学では、「勉強」の質は違うと私は思っています。たとえばテキストでは、「論理的思考力を身につけることができるのが大学に通う意義のひとつ」だと言われています。しかし、論理的思考力は、授業を受けて問題集を解いて、という狭い意味での勉強だけで身に付くものではありません。いろんな人とディスカッションをしたり、それをあとでぼーっとしながら頭の中で反芻したり、といった端から見ると「勉強している」ようには見えないプロセスも重要なのです。そう考えると、大学での「勉強」はオンとオフがはっきり境界づけられて「今日はn時間勉強した!」とカウントできるようなものではなく、もっと日常生活の中にシームレスに埋め込まれた、生活それ自体が勉強と一体になったようなものなのだと言った方がいいように思います。そしてわれわれとしては、大学という環境の中で日常を過ごすこと自体が勉強になるような、そんな大学にしたいと考えています(だからみなさん、もっと大学に来ましょう!)。
 さて、このグループのファシグラは、メインの主張「大学の勉強はムダではない」について、そうした主張がなされなければならない背景、主張の根拠、根拠の具体例や成立要件(根拠の根拠)まで含めてしっかり議論を構造化できています。このグループのファシグラこそ、大学の勉強で論理的思考力が身に付くこと、そして、勉強がムダではないことを具現しているようですね。いやほんと、大学をサボってしまう人たち(くどいようですが、より具体的にいうと私の授業をサボってしまう人たち)にこのグループのファシグラを見せてあげたいですね。
 
【グループ6】
 このグループも、【グループ5】同様、石渡嶺司『就活のコノヤロー』を扱ってくれました。テーマは‘study and experience’。端から見ていて、このグループの雰囲気はとても楽しそうで、なんだか掛け合い漫才をしているようですらありました。
 そして、内容もよくまとまっています。【グループ5】と比較すると、勉強することだけでなく、大学では経験を積むことも重要だ、という論点をより重視した作りになっています。また、経験や勉強を可能にするためには劣等感や自己卑下を払拭する必要があるので、そのために他大生と交流が必要だ、といった具体的な提案も交えています。全体的にコンパクトに収まっていますが、要所はきっちり押さえたファシグラになっています。ただ、筆者の主張への反論(企業や一部の大学関係者の立場)の根拠は挙げられているのに、筆者の主張自体への根拠が挙げられていないのが惜しい。

【グループ7】
 このグループが扱ってくれたテキストは、小林傳司『トランス・サイエンスの時代』。科学技術と社会のあり方を対象領域とした分離融合の学問領域である「科学技術社会論」という分野のテキストです。「科学技術社会論」という名前はきっと学生の皆さんには耳慣れないものかも知れないので少し解説しておきましょう。例えば3.11以降、原子力の安全性についてさまざまなメディアで議論がなされているのを皆さんも触れたことがあるでしょう。原子力政策をどうするか、原発の再稼働を認めるかどうか。こうした判断は皆さんの生活に直接関わってきます。ですがそうした判断の是非について理解するには、高度な専門知識が欠かせず、専門家に任せざるを得ない部分は大きくなります。素人判断に終始していては、ただの感情論や水掛け論に終わって議論にならないが、その関わりからして専門家に任せっぱなしと言うわけには行かない問題、そういう科学と社会の双方に関わる問題を扱うのが、「科学技術社会論」です。
 原発の問題もそうですし、遺伝子組み換え作物の問題もそうでしょう。さまざまな問題が、「科学技術社会論」の対象となります。そこで必要なのは、自然科学に関する知識、社会科学に関する知識、文化や歴史に関する知識、などさまざまです。さらに、例えば原発問題においては、専門家と非専門家(一般市民)が相互に意見交換していく必要が生じますから、知識レベルの違う人たちの間でのコミュニケーションをどう行うか、に関しての技術も必要になります。今回扱ったテキストで中心的な話題になっている「欠如モデル」とは、まさに専門家と非専門家の間での科学技術に関するコミュニケーション(=科学技術コミュニケーション)をどう捉えるか、の一つのモデルなのです。
 このグループは、テキストを「欠如モデルの限界」というテーマでまとめてくれました。では、「欠如モデル」とはいったいなんでしょうか。ファシグラ左側の大きなカテゴリーの中に、欠如モデルの説明が記されています。欠如モデルとは、科学技術の素人である一般市民を、「正確な科学知識の欠如した状態」と捉えるものの見方のことです。こうしたモデルに依拠した場合、仮にあるテーマについて専門家が素人と意見が食い違った場合、その食い違いの原因は「正しい知識を素人が知らない」ことが原因だと考えられます。ですから、食い違いを是正するには、素人に正しい知識を説明して、理解してもらえればよい、ということになります。ちなみに、なんだかこれ、大学教員にも適応できてしまいそうですねぇ。とにかく学生には正しい知識を教え込めばよい、と考えている教員たちは、もしかしたらこの「欠如モデル」に自分も知らないうちに依拠してしまっているのかも知れません。
 おっと、話をテキストに戻しましょう。筆者はこの「欠如モデル」には限界があると主張しています。その理由はなぜでしょうか。ファシグラではその理由を、「積極的な無知」というカテゴリーでまとめています。例えば市民は科学技術に関する知識については、確かに専門家ほどは持っていません。しかしそれは、知的な怠惰や無能力によるのではなく、積極的な理由があるのだ、ということです。「科学的知識」は際限なく増えていくものですから、非専門家がそれを常に把握しておくのは無理があります。非専門家は、もっと自分たちの日常や生活に即して、それらと結びついた形で知識を持っています。テキストには書かれていませんが、この種の知識は、普遍妥当的で法則的な(いつでもどこでも成り立つような)知識である科学的知識に対して、もっと文脈や状況に依存した「ローカルな知識」などと呼ばれたりします(関心のある人は、「クリフォード・ギアツ」、「ローカルノレッジ」などの単語を調べてみてください)。
 非専門家は単純に専門知識を欠いているのではなく、むしろそれらについて積極的に無知であろうとしていたり、あるいはそれとは別の種類の知識(=ローカルな知識)を持っていたりするのだとしたら、単純に専門知識を上から押し込めばいい、という手段がうまくいくとは限りません。う~ん、これとほぼ同じ構造は、大学(教員)と学生の間にも言えそうな気がしますねぇ・・・。
 テキストでは、「積極的な無知」の部分の説明がそもそも少ないので、なかなか理解が難しかったかも知れません。しかしこのグループのファシグラは論理の流れと正確に捉えることができています。あとは、テキストでの議論に自分たちはどう考えるか、疑問や意見をぶつけられたらよかったですね。

【グループ8】
 このグループも、【グループ7】と同じく小林傳司『トランス・サイエンスの時代』を扱ってくれました。テーマは「“欠如モデル”の欠如しているトコ」。しかしこのグループのファシグラはすごい!適切な表現かどうか分かりませんが、怪我人がでそうな勢いのファシグラです(明らかに適切な表現ではありませんね(笑))。かなり活発な議論が行われたことが分かります。
 しかし、よく見ても流れがよく分からないような・・・?個々の付箋の内容には、重要なキーワードだけでなく、それらを自分たちなりに言い換えたものや、自分たちの意見や疑問らしくものもたくさん交えられており、「単なるまとめ」を超えた深みのある議論がグループ内で交わされたであろうことはよく分かるのですが、全体の主張やその根拠にあたるものがどこなのか、がファシグラを一見しただけでは分かりにくい気がします。これはきっと、グループのメンバーに直接内容を聞いた方が早そうですね。きっと、いろいろと熱く語ってくれそうな気がします。

【グループ9】
 このグループが扱ってくれたのは、テレンス・ハインズ『ハインズ博士 超科学をきる』です。タイトルはなんだかあやしげというか、うさんくさいというか、眉唾ものっぽいところがありますが、実際にはこの本、しっかりした学術的な内容を伴っています。いわゆる疑似科学批判の本としては、嚆矢と言ってもいいくらい早い時期に書かれたものです(原著の翻訳は1995年に出版されています。今から20年近く前!)。「疑似科学」とは、例えば実験してデータをとったり、数値を統計的に分析したりするなどして、一見すると科学的に正しいプロセスを経て何らかの結論を導き出しているように見えるものの、実際にはそうしたものにはなっていないものを言います。血液型による性格診断とか、最近では「水に優しい言葉を語りかけるときれいな結晶になる」といった主張とか、そういった事例が疑似科学にあたると言っていいでしょう。実験してデータをとって分析しただけで、「科学」になるわけではありません。科学と、そうでないもの(疑似科学)を識別する作業は実際にはかなりテクニカルで難しい話になるのですが(興味のある方は、伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』を読んでみて下さい)、しかし、例えばいくつかの超能力や心霊現象などの「超常現象」について、科学的に立証しようとしてきた人たちはいます。
 果たして、超常現象は本当にあるのか。人は信じたいものを信じようとする傾向がありますし、信じたいものを信じるための根拠をさがします(「確証バイアス」と言います)。超常現象の存在を信じたい人たちは、その存在を裏付けるような根拠ばかりをさがそうとするでしょう。一方、信じない人たちは、端からそんなものを相手にしないか、あるいは反証ばかりをさがそうとすることになります。しかし、そうした対立は不毛です。たとえば筆者は、超常現象を信じ続けることも、端から否定することも、いずれにも問題はあると考えています。超常現象を盲目的に信じた結果、多くの犠牲を生んでしまった中世の魔女裁判のようなことが起きました。また逆に、催眠術や鍼灸術のようなものは、今ではその効果が(控えめではあるものの)科学的に立証されていますが、最初はオカルト的な超常現象として相手にされていなかったようです。「オカルトはばかばかしい、相手にならない」と完全に無視してしまっていたら、催眠術や鍼灸は科学的な発展をすることはなかったでしょう。
 信じすぎることも、無視して相手にしないという態度でいることも不適切だとしたら、ではどんな態度でわれわれは超常現象に臨むべきなのか。筆者はそれらを批判的な科学的思考を持って見てゆくべきだ、と主張しています。そこまでの議論の流れを、ファシグラはきっちりトレースできています。ただ、「批判的な科学的思考」とは具体的にどういうものなのか、またそれを身につけるにはどうしたらいいか、もうちょっと踏み込んで自分たちなりに考えてまとめることができたんじゃないかなぁ、という気がします。論理の流れのまとめは正確でしたが、それを踏まえてのあと一歩が欲しかった、といったところですね。


 さて、それでは以上の各グループへの講評を踏まえた全体に対する講評は以下の通りです。

1.テキストのキー概念の意味を理解し、それらの関係を示す、ということがかなりできている


2.テキストの「論理の流れ」をかなり正確にトレースできている


3.ただ、筆者に主張に対して自分たちの質問や意見をぶつけてさらに深く考える、というところまでは十分には議論を展開できていない



 前回までの「発展編」でのグループに比べると、今回のメンバーのファシグラの質は、格段に進歩しています。すごい!実は前回のプログラムで学生たちのワークがいまひとつまとまりのないものになってしまったので、今回はプログラムの時間配分、スライドの構成、ワークの内容、等々、細かいところで微調整を行いました(微調整にあたっては、教育開発支援機構の職員のみなさんからの意見を参考にしました)。そうした工夫がちょっとでも実ったことで、みなさんの力をさらに引き出すことができたのだとしたら、運営側としては嬉しい限りです。
 そんな訳で今回のファシグラは全て粒ぞろいでしたので、選ぶのが難しいですが、クイズ文形式をしっかりファシグラでまとめつつ、自分たちなりの回答や提案まで踏み込んで行っている【グループ2】をベスト・ファシグラ賞としましょう。グループ2のみなさんは、ぜひ「教育開発支援機構事務課」までお越し下さい。副賞として、恒例の「言葉の力育成うちわ」を進呈します。「え?もう夏も終わりやん?」等と言わず、是非受け取りに来てください。

 さて、すでに教育サロンに足を運んでくれたことのある方は気がついているかも知れませんが、教育サロンでは、発展編のテキストの原典の一部を、なんと感想文付きで掲示しています。感想文を読んだら、きっと皆さんも本が読みたくなってくるはず。これからまさに読書の秋です。コトチカが、そして、教育サロンが、少しでもみなさんの読書心を刺激しますように・・・(なむなむ・・・)。

コトチカ担当:須長 一幸

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